山の上のお城はいつできたのか?
小牧市と言われて皆さんの想像につくのは、やはり織田信長と、”山の上のお城”でしょう。今のお城こそ復元天守(後述)なのですが、小牧山のお城(小牧山城)の歴史は、かなり古いと言われています。
小牧の城の建造は、1563年。信長は清須から犬山(本宮山)へ拠点を移すことを計画していましたが、家臣の反発を受けました。
そこで、立地に優れた小牧山に城を築く方針に変更。家臣たちは小牧の地を高く評価したそうです。
美濃方面を攻略するための拠点として活躍した期間が5年ほどと短かった小牧山城ですが、尾張統一の総仕上げとして、”新しい首都”を作っていく意味合いもあったと言われています。
信長時代の小牧の城下町
信長が建設した小牧の城下町は、小牧山の南のエリア、おおよそ南北900m・東西800mの範囲で展開されていたことが最近の研究でわかってきています。
今でいうと、池田川から国道41号を少し過ぎたくらいの範囲で、市役所や川西のコーナンなどがあるあたりが城下町のエリアでした。
碁盤上に道路を配置し、長方形の街区と短冊型の地割を採用した町並みは、当時のまちづくりでは斬新なものでした。このスタイルは、のちの城下町の都市建設にも引き継がれたことから、小牧城下町は近世の城下町のルーツともいえます。
信長は晩年に安土に城下町を作っていますが、小牧でのノウハウをうまく活かせたからこそ成功したとも言えます。
徳川家による支配
かの有名な小牧・長久手の戦いが起きたのは、信長が岐阜へ拠点を移して17年後のことです。この戦いは、信長の息子・信雄と手を組んだ徳川家康が率いる連合軍と、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)とのバトルです。
家康は、この戦いで廃城となっていた小牧山城の改修に着手し拠点化。小牧を出陣して長久手までバトルはもつれ合いましたが、徳川軍は最終的に小牧山城に戻ってきてしまいました(事実上の秀吉の勝利)
この経緯もあって小牧山は、のちに尾張徳川家の管理下に置かれることとなり、一般人の入山が禁じられました。
小牧の町の移転
江戸時代に入ってから、木曽路ルートのひとつとして上街道(うわかいどう)が整備された際に、小牧の町は上街道沿いに移されます。移転後の小牧の町は、上街道の主要な宿場町となり賑わいを見せました。
明治に入ってから開通した鉄道(名古屋鉄道上飯田線、現在の名鉄小牧線)や道路(旧国道41号)も、上街道に沿って建設されています。
小牧の中心街が上街道やそれに並行した県道を中心にできているのはこのためだったのです。
今のお城は個人が建てた!?
では、お山はその後どうなったのでしょうか。
長らく尾張徳川家の管理が続いていた小牧山ですが、昭和に入り1930年に当時の小牧町に寄贈され、一般人の入山が解禁に。当時の小牧町では、公園の整備は行ったものの、天守の復元などは行いませんでした。
戦後建てられた現在の天守は、実は平松茂さんという名古屋の実業家によって建てられたものです。落成後すぐに小牧市に寄贈され、今に至るまで歴史資料館(小牧市史料館)として小牧の歴史を語り継ぐ拠点になっています。
山のふもとにあった小牧中学校の移転が完了した後、専門家も交えての本格的な発掘調査が行われ、並行して公園の再整備も行われています。
その一環として2019年に開館したのが、小牧市の新しいスポット「れきしるこまき」です。
小牧山城と城下町の研究では、奈良大学教授の千田嘉博さんが第一線でご活躍なされています。
この千田さんが執筆された新書本「信長の城」では、小牧山城と城下町についてわかりやすく解説なされています。この記事もこの本を参考文献にして執筆しました。皆さんも興味があったらぜひ読んでみてください。